神保町のシネマリスで、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』を見た。
この少し前に、渋谷のユーロスペースで『鏡』を見ている。
決してタルコフスキーの大ファンというわけではないが、これまでに『惑星ソラリス』や『ノスタルジア』、『サクリファス』などを見てきた。
『ストーカー』は、その前作『鏡』の4年後、1979年に公開された。タルコフスキーのソビエト時代の最後の作品となった。
原作は、ストルガツキー兄弟による『路傍のピクニック』という小説で、兄弟は映画でも脚本を担当したが、映画のストーリーは、原作の内容からは大きく乖離している。
隕石の落下か宇宙人の侵入か、定かでない原因によって閉鎖された”ゾーン”の中に、入ると願いが叶うという不思議な部屋がある。
その部屋に行きたい希望者を、厳重な警戒を潜り抜けて”ゾーン”に侵入して案内するストーカーという人々がいる。
今回、ストーカーが案内するのは、科学者と作家。
その3人が、”ゾーン”に侵入し、その部屋にたどり着くまでの情景が、タルコフスキー独特の映像によって展開されていく。
”ゾーン”の外の世界は、セピア色で表現され、”ゾーン”の中の世界には、普通に色がついている。
ストーカーの家の壁は、どうしたらこんな風になるのか、と思うほどボコボコになっている。
タルコフスキー映画にはお馴染みの雨や水は、この映画でも重要な役割を持っている。
浅い水たまりの中に、草木や時計、黒い油や魚など、様々なものが現れてはフェードアウトしていく。
”部屋”の前で、その存在をめぐってストーカー、科学者、作家が言い争いをしたのち、その3人をなだめるように、突然の雨が3人の前に降り注ぐ。
”ゾーン”の中の世界は、どこかの廃墟を使って撮影されたようで、それがとても効果的に、”ゾーン”の世界の終末期的な雰囲気を表している。
冒頭、ストーカーの家の中のテーブルが電車の振動で揺れて、飲み物の入ったコップが動くシーンがある。セピア色の中の世界で。
最後のシーンでは、ストーカーの娘が、超能力を使って机の上のコップを動かす。そして、ベートーヴェンの歓喜の歌が流れる。
この映画の、印象に残るシーンを一つ一つ挙げていったら、それこそキリがなくなるだろう。
まるで、チェルノービリ原発事故、福島原発事故を予言するかのように、ストーカーの家は、原発のドームが立ち並ぶ場所の近くにある。
タルコフスキーは、この映画で、人間の尊厳について描きたかったのだと、その著書で語っている。
ストーカーとその妻は、決して理想的な人物、夫婦とは言えないかもしれないが、タルコフスキーが表現したいテーマを、見事に体現していたと言えるだろう。
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